先日、東野圭吾さんの『麒麟の翼』を文庫本で読みました。
以前映画で見ていて、うちのワイフと撮影場所の聖地巡礼しようという話になったので資料的に読んだんですけど、主人公の加賀恭一郎の顔が俳優の阿部寛さん以外イメージできないんですよ。
映画『麒麟の翼』で加賀恭一郎役が阿部寛さんだったんですね。
先に映画を観てから本を読んだので、完全に脳内を支配されてしまいました。
私は自称#文学ドッグトレーナー ですから、物語をよく読むし、周りの皆さんにも文学を読むよう勧めています。その理由がつまり上記なんです。
どういうことか。
映画・マンガ・J-POP…
これらは否定されることなく素晴らしい文化であることに違いはありません。
ただし、加賀恭一郎は阿部寛だし、モンキーDルフィはあの顔だし(今皆さんの頭に思い浮かんだあの顔です)、関白宣言は俺より先に寝てはいけないくけ俺より後に起きてもいけないんです。
これらの素晴らしい作品は、作品としては素晴らしくとも、完全にひとつの世界が完成しています。読み手や聞き手は、想像はできても創造はもはやできないんです。つまり読み手や聞き手が入り込む余白が無いんですね。
では、ちょっと遊びを入れてみましょう。
皆さん『妖怪・アクドポッカリ』を思い描いてください。
岩手県の妖怪で、踵に纏わりついてくる妖怪です。アクドボッポリやアドポップリともいうそうです。ーWikipediaより
さぁ、皆さんの思い描いたアクドポッカリは何本足ですか?目は何個あります?
何色で、体長はどのくらいですか?
きっと、ひとりひとり違うアクドポッカリを創造したことでしょう。
これが余白です。
「岩手県の妖怪であるということ」「アクドポッカリという名前であること」
これは絶対条件で、これを満たさないと別物になってしまいます。
与えられたルール内でいかようにも創造してよい。これを自由というのではないでしょうか?
昨今のドッグトレーニング及び愛犬との生活は、正しさに支配されてしまって、愛犬と飼い主が世界を創造する余白を失っているように感じます。
ネットやSNSに1日中へばりつき、これと思った情報を切り取って自分のSNSで発信する。それを自己研鑽だと信じて、会ったこともないホントかウソかもわからない投稿に「それは違います」とコメントする。
あなたがそこに費やしている1分1時間1日は、紛れもなく愛犬との限られた時間であるにも関わらず…
そして、ドッグトレーナーもドッグビヘイビアリストも獣医師も、それを伝えるどころか我正しをアピールすることに大忙し。
あなたが高いお金を払って受けたそのセミナーで得た知識は、加賀恭一郎=阿部寛であるということだけかもしれません。
あなたにも、あなた以外の人にも、愛犬との暮らし方に正解などありません。ただしルールはあります。動物福祉から外れないとか、終生飼育するとか、自治体のルールを守るとか、公共のマナーを守るとか…
そこに気づけた人だけが、愛犬とオリジナルのストーリーを描くことができるのだと思います。
そうして描かれた物語は、美しい愛犬との純文学となるでしょう。