飼い主の喜びよりフードの方が愛犬には価値があるのか?【愛犬の問題行動専門ドッグトレーナー】エルフドッグスクールは練馬区を中心に東京都内近郊に

「ほめる」は一次強化子なのか二次強化子なのかは意見が分かれている。
そして、犬にとっては「ほめられる」ことよりも、一次強化子としての好子である食べ物の方が彼らの行動に報いる報酬として有意義であると言われて久しい。
でも、一次好子としての無機質な食物と愛犬との関係を考えたとき、人はなぜ犬と共に暮らすのかという問いかけに、いささか虚しさと疑問を感じる人も少なくないのではないだろうか?
飼い主の「ほめる」は、一粒のトリーツよりも劣るのだろうか?

まず、なぜ「ほめる」は一次好子か二次好子かで意見が分かれるのかを考えてみる。
例えば、Aさんの愛犬はAさんからのオリコウの声かけには尻尾を振るが、他人であるBさんのオリコウには無反応だとする。この場合、Aさんのオリコウは何かしらの一次好子との対提示によって条件付いた二次好子であることが、Bさんのオリコウに対する愛犬の反応から推測できる。
では、どんな一次好子と結びついた二次好子なのだろうか?食べ物だろうか?
そうとは考えにくい。なぜなら、食べ物をもらったことのないまったく面識の無い人間に対しても喜びを表現する犬もいるからだ。つまり、この場合の人間の存在はなんの条件付けも無く喜びを表出させる一次好子のようにも思える。
では、人間の存在そのものが犬にとっての一次好子なのかというとそうではない。なぜなら、犬の社会化期に人間との接点を持たなかった犬は、以降人間に対して慣れにくくなるからだ。つまり、生得的な好子ではない。
なので、やはり人間の存在は後天的に条件付いた二次好子と考えられる。
では、人間と結びついた一次好子は何か?
私は「安心」こそ、犬が人間と結びつけた一次好子であると考える。つまり、日々の生活の中で愛犬から得た信頼と安心が、飼い主の存在を二次好子としたのだ。だからこそ、犬は信頼しているAさんとそうでないBさんとで接する態度に変化をあらわす。

犬が飼い主を安心としての二次好子にした証明の最たるものは、犬が不安な環境にいるときにあらわれる。
犬は不安な環境にいるとき、食べ物を食べられなくなることがしばしばある。
ところが、同じ環境に飼い主がいたり、飼い主に抱っこされている状態だと、犬は食べ物を食べることがある。
これは、飼い主を安全基地とし安心を得ることで食欲を阻害していた不安を軽減させたからに他ならない。つまり、安心は食欲に勝るということの証明ではなかろうか。
そうならば、安心と結びついた二次好子である飼い主の存在は、一次好子である食べ物に勝ると考えられるのではないだろうか。

安心を得るということは生きていく上で最重要項目のひとつであり、それは食よりも優先される。なぜなら食べ物を得ることが可能でも、自分の命が絶たれては元も子もないからだ。
ゆえに、安心は生物が生得的に求める一次強化子である。

では話を戻して、一次好子である安心と結びついた二次好子としての飼い主からもらう「オリコウ」の声かけは二次好子として食に劣るのか?
ここで、人間の場合を考えたい。
大抵の人間は信頼している相手から褒められることを好子とする。
人間は高度な社会性を営む生物である。ゆえに、コミュニティの一員として仲間の役にたつことは生存率を上げるうえで極めて重要になる。そして、自分が役にたったかそうでないかの判断は、相手が喜ぶか喜ばないかでわかる。自分の行為が相手に喜ばれれば、相手は自分を必要とし、自分はコミュニティの一員として存在できる。逆に喜ばれない行為は自分をコミュニティから孤立させる危険がある。
だから、承認欲求はコミュニティの一員として認められるために必要な欲求であり、他者から承認を得ること、つまり承認は一次好子であるとは考えられないだろうか?
ここでもうひとつ重要なのは、承認してくれる相手は誰でもいいわけではなく、安心して信頼している相手からの承認を得たいという点である。
つまり、信用していない相手からいくら承認されても無意味であるという点だ。
そして、コミュニティを形成するという点で犬は人と共通する。であれば、犬も信頼しているコミュニティのために喜ばれたいという承認欲求があるのではなかろうか?一説には犬は人の役に立ちたいという欲求があるとも言われている。
だとすると、

①安心は食より重要な一次好子
②信頼されている飼い主は犬にとっての安心となる
③犬は安心できるコミュニティにおいて承認されたい欲求がある

これらの仮説から、
【犬から信頼を得た飼い主の『ほめる』は、一粒のトリーツを凌駕する】
という結論にいたる。

これはあくまで非科学的な仮説であるわけだが、私は文学としてこれを信じている。
なぜなら私は、妻の喜ぶことをしたいと思い、それは一貫の高級寿司を凌駕するからだ。